身元引受

N0WHereNowhere2005-09-15



毎年夏と秋の境目の日に思い出す風景がある。寒さが身にしみるお寺の客間。たった一つの火鉢を囲み、何度も白い息を絶やしながらの語らい。▼1993年9月、12人の「中国残留婦人」が強行帰国した。「日本で死にたい」。帰国するには日本に親類縁者がおり、かつ、身元を引き受けることが絶対条件だった。彼女たちには頼れる者がなかった。▼当時、私はNHK山形放送局の2年目のディレクターだった。新人に毛の生えたようなものだ。若僧には荷の重い物語であった。成田に降り立った12人の中に山形県出身者が2名いらした。そのうちのお一人には兄がおり、栃木で酪農を営んでいた。しかし、身元を引き受ける経済的な余裕が無かった。▼そこで、国は「特別身元引受人」という制度を作った。名乗りを上げたあるお寺の住職が、彼女の特別身元引受人になった。彼女はふるさとで暮らすことが、どうにかこうにかできるようになった。▼帰国後、はじめに所沢のセンターに入所。日本で生活するための最低限の「教育」を施され退所。その後、山形のお寺に住まうようになった。お寺の客間で彼女に何度もインタビューをした。▼山形の冬をご存知か?関東で生まれ育った者にとって、冬は青空と決まっている。しかし、ここは晴れない。雪が降るから湿度が異常に高い。たとえれば「真冬の梅雨」だ。寒さが骨身に沁みるのはきっとあの湿度のせいだ。大広間に火鉢が一つ。お互い鼻を垂らしながら語らった。▼話題が中国での生活に及ぶ。夫や子どもたちは中国人、自分だけが日本人。日中戦争朝鮮戦争文化大革命。彼女が強いられた苦痛は筆舌に尽くしがたい。街を歩いているとレンガが飛んでくる。部屋の空気が張り詰めていたのは寒さのせいばかりではなかった。▼次の瞬間、彼女は突然泣き叫び、暴れ、気絶した。私はこのような場面に何度も遭遇した。カメラも回っていた。出そうと思えば出せた。使えばインパクトがあり、「いい番組」になる。しかし、放送には出さなかった。彼女には制度上、特別身元引受人がいた。しかし、彼女自身が自分の身元を引き受けるにはあまりにも負担が大きすぎた。もし放送してしまったら、未来永劫引受ができなくなるのではないか、そんな切ない気持ちになった。▼中国の家族を日本に呼び寄せたいというのが彼女の夢だった。結局夢は叶わなかった。そして、彼女は中国に戻っていった。お元気に暮らしておられるのだろうか。スタッフに振舞ってくれた手作り餃子の味は生涯忘れません。ありがとうございました。▼人生とは残酷である。自分が自分自身の身元引受人にならなければ、健康に、心豊かに生きていけないようになっている。私は思い出した。何があっても引き受ける。その決意こそが人生であると。▼しかし、私は今、彼女にお目にかかる機会が与えられたとして、はたして彼女にその考えを強いることができようか。自らの身元引受人になるか否かは、自分自身が決めることである。また、いつになったら引き受けるか、その時を決めるのも自分でしかない。▼しかし、本当にそうだろうか? 私は自分自身に「今すぐ、何でも引き受けよ」と胸を張って言えるだろうか。今日に至るまで拒む自分を何度も見てきたではないか。だから、本当は、自分に対しても、他人に対しても、唯一できることは、待つこと、そして祈ることだけなのではないだろうか。