アドレナリン

N0WHereNowhere2005-12-11


私にとって「もう一度」と願う「輝き」とは、「あの頃」とか「あの場所」とかではない。脳の作用のことを指す。時と場所を選ばない。アドレナリンが多量に分泌され、頭と体がフル回転し、歯車が回る状態を「輝き」という。その状態にしばらく預かっておらず、そろそろ良いのではないでしょうか、と、天と地と我に対し、愚痴をこぼしているのです。私には「あの頃」は良かった、とか、「あの場所」は良かったという執着がないのです。▼新しいビジネスモデルではありませんが、新しいアドレナリンモデルが、今の私には必要なのです。世の中が移り変わるように、自分自身の移り変わりを先取りして変化して行けたらよいですね。しかし、私の場合、変化への反作用があまりにも大きすぎた。そして今日の「停滞」がある。結果として先取りは出来きず、変化した自分への後追いを、今、している。▼一方で、変化しないものもある。それは、表現者として生き、死んでいきたいという願望だ。そして、その「表現者」という言葉に対して、私はあまりにも偏狭なアイディアしか持てないで来た。映像や文章を世に送り出す者だけが表現者ではない。そのことに気付くことが出来なかった。そもそもこの世に生まれ出れば、「生」そのものが表現である。ある経営コンサルタントが言った。「売上は表現手段の一つである」「そして、その表現の仕方は百人百様だ」と。なるほど。▼私の新しいアドレナリンモデルの構築は、まず、私のシャドウに光を当てることから始めている。私のシャドウは、