チーフ・プロデューサーという生き物

N0WHereNowhere2006-01-29



入局して、私がこの世で一番なりたくなかったもの。それがチーフ・プロデューサー(CP)だった。▼CPは行政職で言えば副部長、一般的な組織では課長ということになる。ディレクターにとって、CPになることは、つまり「出世」は、「現場からの失業」を意味する。CPになるともう現場にはいけないのだ。人とお金と番組の「管理」が主業務になる。▼「出世」という意味でなりたい人、現場から離れて管理する(支配する)立場に魅力を感じる人(名作を作る能力のない人)らは、CPや部長や局長になりたがる人が多かった、ような気がする。偏見だろうか。▼口うるさいCPや部長や局長を黙らせる決まり文句がある。「あなたが作った番組(名作)を見たいので、番組タイトルを教えてください。資料室で試写したいで〜す。」うるさいヤツに限って名作を持たない。▼仕えたCPは5人。山形で3人。東京でふたり。Iさんは、よく分からないまま5月に転勤になった。Mさんは「きょうの料理」のデスクからCPとして山形に異動してきた。39歳。いくら年収が1000万円を超えても、現場を失う悲哀がなりたてのCPにはあるのだろう。現場失業の嘆き節を酒場でよく聞かされた。しかし、そんな彼は大変な苦労の中で、CPとしての能力を開花させていった。今は何をしているのか存じないが、札幌局の統括CPにまでなっている。次のCPはドラマ出身の少々変わり者。私の転勤が絡み、あまり付き合いがなかった。そして上京。▼東京で最初にお世話になったKさんは、Nスペから福祉へ異動になってきた。前専務理事・M氏によくマージャンに誘われていた。いわゆるミヤセン・チルドレンだ。厳しいなと思った。CPの中のCPという印象を持った。しかし、私が頭を抱えている時、茨木のり子の詩集「自分の感受性くらい」をそっと手渡してくれる、そんな一面を持った人だった。今は長野局の局長。まもなく職位定年だと、筑紫哲也氏の教室で聞いた。▼辞表を出したSCPは長年編成局にいた。編成?現場の私からすれば、はぁ? だった。明らかに現場に慣れていなかった。それはコメント直しひとつとってもそうだった。しかし、退職間際、渋谷のとある料亭で差し向かう私に、彼がそっと教えてくれたことがある。私は臆面もなく尋ねた。「CPなど、よくやってられますね」と。彼は丁寧に答えてくれた。こんな私にもディレクターの時代があった。名作こそないが、確かにディレクターだった。その時代があるからこそ、今度はCPという立場で、受けた恩を返さねばならぬと思って仕事をしている、と。▼私は相当に未熟であった。魂の成長が遅い私には、若すぎたのだろう。彼の言葉を到底受け入れることができなかった。適当なこと言いやがって、と。ところが、この辺のことを感じ取ることができるようになってきている自分に気付いた。詳細は記さぬが、おそらく私を育てたのは、私の4人の子どもたちだろう。今は、Sさんに近い。おそらく人生の半分以上を生きて来てしまった。残りの半分以下の時間は本当の意味で「仕える」生き方をしたいと思っている。▼Sさんはその後京都局の放送部長に赴く。直後、京都局では立てこもり事件が起きる。大変だったろう。▼笑える話がある。NHKを辞めた後、年賀状のやり取りの中で、彼の息子がR高校にいることを知った。そして、彼はR大学に入学してきた。写真部員となった。学生部の窓口で、父親の生き写しのような顔と声。NHK時代お世話になったこと、京都局でご苦労されたことへの慰労の気持ちを、そのご子息に伝えた。▼さらに笑えない話がある。そもそもそのR大の採用面接で大変お世話になった人物は、実はこの、辞表を出したCPと、慶応義塾時代の親友であったという。入職後、件の面接官との会話で発覚した。▼私はさまざまなつながりから逃れられない。その煩わしさばかりにいらだってきたが、冷静に考えれば、それは立派なセイフティーネットが与えられているのかもしれない。禍福はあざなえる縄の如し、か。いや、私だけではない。皆、何かしらの流の中で生きているのだ。PDも、CPも。そして、あなたも。