当たり前のこと

与えてもらおうと一方的に待っていてはもらいは少なく、得ようと思って求めていけば自ずと与えられる。始まる前からなんだが、里山帰農塾フォーラムはあくまで東京でやるフォーラムに過ぎない。本当に知りたい人、感じたい人、考えたい人は鴨川に行く人だ。別に鴨川でなくても良い。私が言いたいのは「現場」だ。▼フォーラムに出て、「何だぁ〜」と心の中でつぶやくあなたは、知ろうとしない、感じようとしない、考えようとしない、きっとそういう生活習慣が身についたとても立派な学生さんだったり、サラリーマンだったりするのだろう。▼とりあえず学生さんは卒業後、サリーマンは定年まで会社が存続するならば、これからも立派に過ごし、定年の後、心底ぞっとすればよい。▼あくまで会社が存続するならば、もしくは会社の中で自らの立場が存続するならばの話。当たり前だが、そんな前提、保証はどこにもない。どうぞご立派に。▼大変不謹慎な比較だが、先日あるひき逃げ事件の判決が出た。懲役20年。被告人は32歳。出所する時は50代。ひょっとすると出所後の彼と、数十年後の自分とだぶるところがあるのではないかと、真剣に思った。あなたはどうだ。▼水俣で、原田医師が言った。「みなさんが水俣に来て活動家になることを期待していない。自らの生活で水俣を生かしてほしい」と。帰農塾も似ているところがあろう。▼先日友人から質問された。私のブログがここ最近、あまりにも帰農塾、帰農塾いうので、帰農するのか?と。そうではない。おそらく帰農や農的生活というのはもっと広い概念だ。定年帰農だけが帰農じゃないと思っている。言っちゃ悪いが団塊なんてあと20年もすれば皆いなくなる。あまり団塊団塊言うな!、とは団塊にも団塊ジュニアにも属せなかった私のひがみか。▼まあ、上手く説明できないので、勝手に結ぶ。「現場に出て、裸足になって土を踏み、素手で土を砕けば、分かるようになることがあり、分からなくなることがある」ということだ。▼農作業という行為を通じて、肉体から湧き出る思考が農的生活にはあるということだ。私が帰農塾で実感したことだ。それもこれも、あの固い粘土質の畑に、力いっぱい鍬を振るったからこそ気付いたことだ。▼今思えば、なんと言うことはない。そんなこと当たり前だった。