「私」の終わり

N0WHereNowhere2006-02-27


どのように死んでいきたいか。私は赤子のように死んでいきたい。▼たいての人は、人に感謝されながら、惜しまれながらを望むのではなかろうか。私は感謝されなくても良い。恨まれても良い。ようやくいなくなってくれるかと喜ばれてもよい。誰かに見守られなくてもよい。ただ、赤子のように死んでいきたい。▼私以外の物のために働き、そのために私を守るという矛盾に引き裂かれながら、与えられた全てのエナジーを使い果たし、最期は赤子のように死んでいく。▼先日「ポジションが分かれば、ミッションが分かる」という言葉に触れた。その言葉には先があるのではないだろうか。「死に方を決めれば、生き方が決まる」と。私の最期は格好の良いものでなくてよい。ただ、赤子のようであればよい。▼あまりにも私は生き方そのものに拘泥し続けてきた。「生き方」なんていうのは、そんな方策がありそうで、実はない。それは「生きてきた結果」でしかない。▼「金の儲け方」がないのと同じだ。あくまで「儲けてきた結果」があるだけで、はじめから儲かる「方法」があるのなら誰でも儲かる。▼「私」も同じで、はじめから「生き方」があったらそれをやればいい。しかし、生きるという行為は、現在形に見えても、実は瞬時の「結果」なのである。▼とくに死に急ぐ気はないが、「私」の「生き方」では生きれない、つまり、それについては終わったと感じる。そのことをここに綴ることで、ひとまず『NO<W>HERE〜<W>はどっちを向いている?〜』という題名のブログを終わりにしたい。▼お付き合いくださった皆様、ありがとうございました。改題後、またお会いしましょう。