聴從

N0WHereNowhere2006-04-08


▼「ちょうしょう」と読むらしい。呼んで字の如し、自ら耳を傾け聴き入れ、その声に従うことだという。▼見分けるのが難しいように、聴き分けるのも実に難しい。私は子どもの頃から聞き分けのよい子ではなかったので(未だに)、人の数倍苦労が多い。▼首から下の節々が軽く痛む。頑張れば出かけることも出来てしまうが、出かければ痛みが増すことは容易に想像できる。こういう状況が一番危うい。人目や醜聞を気に掛けたり、責任という言葉が頭がもたげると、かすかな体の声・主張は完全に無視される。そして、私は今までそのようにしてきた。▼だから私は本日も休む。これはとても怖いことである。またしても休職への道へのいざないか、などと思ったりもする。制度上は土休という扱いで何の問題もなく休むことが出来る。問題はないのだが、葛藤のさざ波は止まない。▼発せられる声を明確に聴き、素直に従えたらどんなに楽だろう。


マザー・テレサの愛した祈りに、聖アッシジのフランシスコの祈りがある。

    私は、平和をつくる神さまの道具となりたいのです。
       憎しみのあるところに愛を
       罪のあるところに赦しを
       争いのあるところに一致を
       誤りのあるところに真理を
       疑いのあるところに信仰を
       絶望のあるところに希望を
       やみのあるところに光を
       悲しみのあるところには喜びを
       慰められるよりも慰めることを
       理解されるよりも理解することを
       愛されるよりは愛することを


そんなことを本気で考え、実践しているキリスト教者がどれほどいるものか。かえってキリスト教者でない者の方が、クリスチャニティーに溢れた日常を送っている。私は最近そういった人々と出会う機会に恵まれている。やっぱり「教」っていうのは好きになれない。これは、私が生活や体をないがしろにすることと、地下水脈でつながっているのかもしれない。そう思うと「教」は「教」で意味があるのかもしれない。今日、体の声から感じ取れるのはそれくらいのことだろうか。はいはい、わかりました。そろそろ教会へ行けということですね。