受動日

N0WHereNowhere2005-09-01



何もする気が起きない。何もする気が起きない自分に罪悪感を抱く。午後3時を過ぎる頃、やっと「これでいいのだ」となる。そんな日は朝から受け身で流せばよかった。▼ということで、本日の受け身な私がピンと来た文章より▼『ファーブルはチャールズ・ダーウィンに代表される進化論の反対論者であったという。「本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されているのだ」。言語という交信手段を持たない昆虫の本能と習性を説明するために、人間は言語を駆使して説明というレベルにまで持っていかねばならない。その過程で観察、実験、教養、知識など様々な要因が働くが、観察者の人格を内に含んだ説明というものがもっとも大きな作用をなすと思われる。』(バルナバ No245 「発見すること」より)▼『体育会でのいじめや、指導者の暴力は、後を絶たない。なぜなのか。それは、スポーツを体育と訳したことに象徴されるように、日本のスポーツは軍事教練の一環として、利用されてきた。そこにあった軍隊的な規律が、亡霊のように、未だに顔をのぞかせる。下級生は上級生に絶対服従する。指導者に反抗するなど、もってのほか。そんな世界が、残念ながら存在する。閉鎖社会では、軍のように管理するのが、最も安易に団体を統括するシステムだからだ。京大アメフト部・水野弥一監督の話をうかがう機会があった。「うちの部では1年生はお客さん。練習は好きな時に来させ、好きな時に帰らせる。雑用は全部4年生にやらせる」。「4年生には『お前らが一番勝ちたいんだろう。なら、一番嫌な仕事をやれ』と言うんです」。人間はなぜスポーツをするのか、という根源的な問いに、彼は即答した。「知的好奇心です。新しい世界を知るというのがスポーツのだいご味。うまくなった時のことは、なってみなきゃわからない。自分の知らない世界を発見することで、人生観、世界観が変わる。それを追求する姿勢が知性です」。何のために野球をするのか。』(朝日新聞2005年8月30日スポーツ欄 EYE 西村欣也「「殴るな」なぜ守られぬ」より)▼たとえ足が止まったとしても、考えるのはいいことだ。考えるのをやめることは、自らの人格、知性、ひいては人生を手放すようなものだ。だから私は考えすぎだと非難されても、考えることを手放さない。ただ、そこには偏差値も、修士も、博士も、Ph.Dもない。それぞれの人格、知性、人生がある。