連続性と断層と

N0WHereNowhere2005-06-29

茨城県鹿島郡波崎町茨城県の東南端に位置する。利根川の河口に面し、対岸には銚子漁港がある。千葉県から利根川一本を隔てただけなのに、砂しかない、不毛な、陸の孤島がそこにはある。▼何を隠そうここが私のルーツである。父の実家は代々庄屋だった。広大な農地を持っていたが,GHQによる農地改革で、一町分を超える田畑が召し上げられ、戦後没落農家となった。▼昨年、町役場の戸籍係を尋ねた。戸籍上辿れる範囲で祖先を遡る。一番最初の戸主は安政年間の人物だった。正確には前戸主である。明治に出来た戸籍制度。その最初に記されているのは江戸時代に生きていた前戸主の名前であった。現在は筆頭に戸主名が来るが、当時は前戸主を記していた。戸主よりも前戸主を重んじる文化が伝わる。▼母の葬儀が済み、さまざまな役所関係の書類を整理していた時のこと。私は父にある事実を伝えられる。私には未だ見ぬ姉と兄がいると。役所を尋ね,戸籍を遡り,ひっくり返しのはそのためだった。戸籍には父の言った通りのことが記されていた。▼父はもともと農家の次男坊であった。継ぐ物ののないものは地縁の家に婿養子に入るのが因習であった。24で結婚,一男一女をもうけた。3人目も生まれるはずであった。しかし、今で言う医療事故により母子もろとも亡くなった。▼舅と関係の悪かった父は、ふたりの子供をつれて家を出ようとした。しかし、跡継ぎ大事と舅は認めず。結果として子供ふたりを置いて家を出た。母を亡くし、父に捨てられた形となったふたりの子供の気持ちはどのようなものだったろう。▼父は36で母と再婚する。そして私が生まれるわけだ。ふたりの命が消え、幼子の恨み言がなければ、私は生を授からなかった。命に流れがあるとして、私はどういう流れと断層の中で生きているのだろうか。▼沢木耕太郎の『テロルの決算』が好きだ。社会党委員長・浅沼稲次郎61歳と彼を刺殺した右翼青年・山口二矢17歳の物語である。▼このあとがきに沢木は記している。『年齢が作品にとって特別な意味を持つことはあるのかもしれない。しかし、五年前であったら、これは山口二矢だけの、透明なガラス細工のような物語になっていただろう。少なくとも、浅沼稲次郎の、低いくぐもった声が私に届くことはなかったに違いない。そして、これが五年後であったなら、二矢の声はついに私に聴き取りがたいものになっていたかもしれないのだ。五年前でも五年後でもない今、『テロルの決算』は山口二矢浅沼稲次郎の物語としてどうにか完成した。』このとき沢木耕太郎は31歳であった。▼人には、同じ物事でもある時までは感じることができたのに、ある時からは感知すらできなくなることがあるようだ。当然逆のこともある。ああこういうことだったのかと、後になって分かる。今では逝ってしまったお袋の,数々の「たわごと」が手に取るように分かる時がある。▼感性に分水嶺があるとすれば、私は今であるような気がしてならない。この嶺を越えると元来た風景をこの目で見ることは出来ない。今、ほんの少しばかり嶺を越えたところに足を踏み出している。▼もともと私は命の流れでいうなれば、断層から生まれてきた子である。だからかどうか知らないが,順調に積み上げられたきれいな地層よりも,みごとに切れ込んだ断層に魅かれてしまう。人も自分も,「順調な人生」に面白みを感じることができない。そんな生まれながらの感性はここがルーツであったか。▼茨城県波崎町は今年8月1日隣接する神栖町に吸収合併される形で「神栖市」となる。私の変わり目を後押しするように。この世から波崎という名前が消えていく。