冒涜

N0WHereNowhere2005-06-30

深夜0時5分までその本屋は開いていた。山形市南栄町から山大医学部に通じる道沿いにあった。▼今、首都圏で暮らしているとあの頃のことがとても不思議に思える。ヤマザワ(食料品スーパー)は11時までやっていたし、本屋は0時までやっていたし、果てはモスバーガーが24時間営業だった。10年前の山形である。こちらには今でも0時までやっている書店がない。一人暮らしの夜な夜なこの本屋は私の「ネタ」を練る宝庫だった。▼沢木耕太郎『テロルの決算』はその一冊だ。17歳の右翼青年・山口二矢浅沼稲次郎刺殺に及んだ。二矢がなぜ沢木の心を捉えたのか。沢木はあるインタビューでこう答えている。▼「声を持たぬ者の声を聴こうとする。それがノンフィクションの書き手のひとつの役割だとするなら、虐げられた者たち、少数派たらざるをえなかった者たち、歴史に置き去りにされた者たちを描こうとすることは、ある意味で当然のことである。しかしなぜ、無差別殺人の犯人や、公金横領の犯人、あるいは婦女暴行や幼児誘拐の犯人たちに向けられる<理解しよう>というまなざしが、ひとり右翼のテロリストに及ばないのだろう。私には、そのような硬直したヒューマニズムに対する、義憤がないこともなかった・・・・・・。」▼「17歳の少年が計画的に人を殺すなどとということがありうるはずがない。ましてや政治的なテロルを、しかもたった一人で行うことなど考えられない。きっと背後で糸を引いていた人物がいるにちがいない。山口二矢はその誰かに踊らされていた人形にすぎないのだ。――――私には、このような見方の底に隠された他者への傲慢さと、その裏返しの脆弱さに我慢がならなかった。それは山口二矢という17歳ばかりでなく、同時に私の17歳に対する冒涜ではないか、と思えた。あなたは17歳の時、人ひとり殺したいと思ったことはないのか。少なくとも、私にはあった・・・・・。」▼私は少なくとも、他人の中の36歳までは、自分の36歳までにひきつけて受け止めていこうと思う。自分の36歳までの出来事を、奢り高ぶらず、脆弱すぎず、冒涜せぬように。▼人にはいろいろなタイミングと言うものがある。自他のタイミングが織り成すのが人生であり、世界なのであろう。タイミングが合わないからこそ、色合いや、肌触りに深みが出て、楽しい織物ができる。▼『テロル』はついつい読み始めると止まらなくなる。もう何十回読んだか分からない。だが、一度として同じ思いで読んだことがない。▼私の手元にある本は1993年6月20日発刊の第8刷である。この年はとうとう最後まで梅雨が明なかった。そして秋には未曾有の大凶作となり、翌年米が大量に輸入された。午前0時過ぎまで本屋で立ち読みをしながら、タイ米を食する日々。山形は不可思議な場所だった。

世界は「使われなかった人生」であふれてる

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