信仰

N0WHereNowhere2005-08-11



「信じる」とは何か。私は、「信じる」とは、未来永劫に渡って「信じ切る」ことではないと考える。信じることが信じ切るという意味ならば、そもそも人間には信じる能力は備わっていない、と私は思っている。▼かつて軽井沢の文学館を尋ねたことがある。日帰りだったがとても楽しい旅だった。我がニーチェ永劫回帰である。▼文学館では神谷美恵子展が開かれていた。そして、加賀乙彦の講演があった。彼は生前の神谷と親交を持っていた。精神科医にして、作家である。東大の精神科にいた時、巣鴨プリズンの死刑囚のカウンセリングを行っていた人物でもある。▼加賀はクリスチャンではなかった。ある時、機会を得て、軽井沢の別荘で丸四日、神父とさまざまな問答を繰り返す。「天国があると信じるか」。「信じるか、信じないかはあなたの自由だが、私はある方を信じる」。問答の果てに彼は受洗を決める。58歳だった。▼死んでみないと分からないものがこの世の中にはあまたある。逆説的な言い方をすれば、生きてみないと分からないものばかりだ。▼「信じる」とは「賭け」である。となれば、わざわざ「ない」ものや「悪い」結果に賭ける道理がない。しかもこの賭けは、当面死ぬまで続く。全ての結果は、ここで終わりですという完了形がなく、将来に通じている。なおさら信じない理由が私にはない。▼「賭け」には不安も疑いも一杯詰まっている。そういう時はさっさと「ファイナルアンサー」と言ってしまえ、だ。▼今日の結論。「信じるという行為は、疑いも不安をも多分に含む賭けである」。 人は張るのが怖くて、何かにつけて理由を並べて逃げ回る。そして、逃げているうちに一生が終わる。おそらく、あっと言う間にね。

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

宣告 上 (新潮文庫)

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