差別

N0WHereNowhere2005-10-22



人の可能性を潰すことで、自己の安定をはかる。そんな傾向が人間にはある。こいつは○○なヤツだ。だから嫌いだ、と。▼私がよく言われること。「お前はぐちぐち考えすぎなのだ」「完璧主義なのだ」「俺なんかいい加減にやってるよ」。これは、私の存在否定に他ならない。違いを指摘し、その差異を認め、楽しむ姿勢は微塵も無い。▼私は人にそう言われ受け入れてきたが、今日から受信拒否を決めることにした。いちいちあなたの差別には付き合ってられない。差別するのは勝手だから、どうぞご自由にしていただきたい。▼私はそういう人たちを逆差別する。私は「自分はぐちぐち考えるのではなく、深く考えるのだ」と思う。私は「完璧主義ではなく、人生に誠意ある応答をしているのだ」と思う。「あたなになんか、深く考え、誠意をもって人生に応答できやしない」と指摘する。▼私がこの世に与えられた意味、私を差別する人間と出会った意味、彼らが私と出会った意味、そのつながりは有効に働いているのが見える。あなたには見えますか?▼人の可能性を潰すことで、自己の思考の安定化をはかる、その在り方を、私はお勧めできません。きのう、教会に行って、教会の人と話をして、痛烈に感じ、疲れて帰ってきた。復職すればこの数百倍の差別が私を待っていることだろう。▼でも、負けません。生き抜きますよ。食い続けてやりますよ。戦闘モードのスイッチが入ると、自分でも手が付けられないほど人には負けません。またその世界に舞い戻るのは何か退化してしまったような気分になります、キリスト教的には。でも、そろそろそうしたキリスト教の呪縛とはさよならしようと、きのう教会に行って強く感じました。▼キリスト教は「キリスト」ではなく、単なる「キリスト教」に過ぎないのだ。私は「キリスト」に通じる必要性を感じても、「キリスト教」のぬるま湯につかり惚けるのは御免だ。さらば、キリスト教 さらば人生平和ボケ!