残忍だ

N0WHereNowhere2006-01-11


堪忍だと思うことがある。
どうしても、おもしろくなりようがないような気がして仕方がない。世の中、職場、仕事、さまざまな人間関係、その他諸々。いくらフランクルから、人生に問うな、人生からの問いに答えろと言われても、乗り切れない。勝ち馬に乗るように、乗ろうとすると、その瞬間、その馬は「教」というものになる。自由を求めて、自由へのパスを手にした途端、そこにあるのは自由に見せかけた不自由。結局、「教」というものは不自由だ。それにしても、人々はなぜ不自由でも「教」にしがみつくのか。それは、安定感を感じることが、できるような気がしないでもない、からではないだろうか(私には安定感などと呼べない、とても希薄な物を表現したかったので、こんな遠まわしな言い方になりました)。その安定感は、私にはあまりにも不確かで、わずかばかりに思えてしまう。だから、「教」にたてつく。「教」は私に安定感を与え、そこに縛り付けておく力がない。いつでも飛び出せてしまう。これを自由と呼ぶのなら、この世の自由とは如何にやせこけた物、乾いた物であることか。官邸の干からびたチーズの方がましだ。自由も安定感もない今の私の世界。私が一番嫌いなだらだらとした上り坂のように続く人生。
これを残忍だ、堪忍だと思わずにはいられない。どれだけ追い詰められても変われない。それでも人生は進む。残された自由は、自分の人生を止めることぐらいか。生きる自由を求め続け、ここに至るは死への自由とは。悲しいとは思わないが、とても頭に来る。