モノトーン

N0WHereNowhere2006-03-29


▼2003年12月23日の天皇誕生日、私は山手通りを走るバスの中にいた。年末の混雑に加えて、地下鉄16号線の工事が行く手を阻んでいた。体育会リーダースキャンプのため2泊3日の出張終え、やっとの思いでたどり着いた池袋。残務も早々に市谷のアルカディアに急ぐ。2階には前早稲田大学副総長のMさんが既に到着していた。1時間ほど、胸襟を開いた語らいをする。靖国通りに出てタクシーを拾い、M氏を乗せ、私は総武線で帰宅した。午前0時を少しばかり回っていた。▼翌24日、誰もいない5号館でひとり残務をこなしていた。来年はどんな年にしようか、なろうか。そんなことを考える隙間は、一部たりとも私にはなかった。昼の3時には仕事を終え、荻窪に向かう。昼飯を北口のマクドナルドで済ます。新潟出身の後輩職員にメールを出す。今となっては不確かだが、先輩としての不甲斐なさを詫びるような内容だった。送信を終えると約束の時刻までゆとりがあったので、北口一体を徘徊する。クリスマスの彩られた風景。私にはモノトーンにしか見えなかった。1995年の夏から翌年の冬まで、私は杉並区民だったことがある。会社の借り上げワンルームマンションがあり、ここから原宿まで通っていた。それなりに楽しい暮らしだった。生まれて初めて23区内に住み、近所を自転車に乗ってぶらぶらするのが嬉しかった。フラットベルビル303。大家さんはだぶん平鈴さんなのかなぁ。今は別人が暮らすマンションがやはりモノトーンに映った。▼約束の地は反対側の荻窪駅南口、しかも徒歩20分のところにあるマンションの一室だった。荻窪の住人でありながら、駅の南側を歩いたことが実はなかった。それなりの商店街を抜けると、高級住宅街が連なる。その坂道を降りていくと目的地があった。その頃の私はフロイトに関心を抱き、やがてユングに推移し、そこからミンデルやケン・ウィルバーへと広がりを持ち始めていたところだった。私は日本で3人目のプロセスワーカーに会うために、かつて縁のあったかの地に降り立った。▼体に頭が支配を受ける。それが当時の私の感覚だった。首から下がなかったらどんなに多くの仕事がこなせるだろうかと、心底体を恨んでいた時期である。