主の平和

N0WHereNowhere2006-04-18


聖公会の礼拝の中で、「主の平和」と言いながら、お互いに握手する習慣がある。つい最近まで私は、握手そのものが平和の象徴的行為であると勘違いをしていた。▼私は長男にとってとても怖い父であるようだ。自分ではそうは思っていない。またそこに問題がありそうだが。▼私は「仏の顔も三度まで」よりも寛容であろうと努力している。だから3倍の9回までは目をつぶるように努力している。言葉で、前の言葉よりもより説得力のある言葉を選ぶ工夫を凝らしながら、語りかけ続ける。そして、長男の了承を得るようにしている。▼しかし、そのラインを超えて彼が10回目の不作為に及んだ時、私は容赦なく彼を叩く。口より先に手を出す。物では叩かず、右手だけで叩く。私の右手が痛いと思うほどの勢いで叩く。▼こんなことを続けていく内に、長男は叩かれる恐怖だけを記憶するようになる。そして、私の前で自分に不利な証言を一切出来なくなる。▼しかし、私は長男が起こしてしまった何らかの過ちや失敗を叩くのではない。むしろ過ちや失敗はいいことであると奨励している。ただただ10回も不作為を繰り返すことを叩くのだ。それが、先日、やっと和解の糸口を掴むことができた。あるラジオ番組で「握手」の意味を聴いてからだ。▼握手とは相手の利き手を自らの利き手で握ることにより、相手が武器を手にする機会を奪うことにより、自らを守ることが本来の目的であるという。つまり、握手の前提には相手への不信、敵意があるのだという。握手ははじめから我々人間に与えられた平和の儀式ではなく、お互いの「不信のエポケ」であったのだ。▼私は長男に「握手」の意味について語り、私と話をする時は私の右手を何よりも先に握ってしまえと教えた。そうすれば、まず叩かれる心配は消える。その隙をついて語りにくいことを語れる範囲でよいので語れと。▼私と彼の間に、やっと主の平和が訪れた。

ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる

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