孤独

N0WHereNowhere2006-04-25


「わたしは、他人とのコミュニケ−ションというものはそうそうにあきらめているんですね。少なくとも自分の処世術としては、最初から『変な奴』というキャラでいこうと。だから宴会なんかにも滅多に行かないし、つき合いは悪いしね。ただ、表面的にあいさつができて、それなりにつき合っていられればいい。たまに気の合う人がいればちゃんとつき合えばいいんであって、別に誰かとわかり合えるなんて思ってないし」
「それよりも自分自身との対話の方に興味があるんですね・・・」

精神科医春日武彦さんは、こう言っている。
んーーーーーー、ここにも仲間がいたーーーーぁ。
私の気持ちをここまで正確に言ってくれる文章があるなんて・・・・・。
春日さんとはかなり気が合いそうである。

前々回に、ちょっとだけ「孤独」ということに触れた。
近くに集団があっても加わらない。
みんなが仲良くしている人がいても、別に会おうとも思わない。
そんな「孤独」との戯れ。
そういうことが、人生を生きるうえで意外にアドバンテージがあると言ってもなかなか信じてもらえないかもしれない。

世の中の「成功法則」を叫ぶ人などは、まずは「人脈」と言う。
人のつき合いが人生を紡ぐのだと言う。

「んーー、何も“成功法則”などといばりながら、当たり前のことを言うんじゃないよ。そんなこたぁー、小学校の先生が生徒に言うレベルのことなんでないかい!」 ひねくれ者の私はそう思う。
そして、実はそんな当たり前のことは、常識ではあるけれど真実ではないと思っている。
ここは、言い方が難しい。
あまり誤解を与えたくないので、言い方に困る。
私は人嫌いではない。
愛想も悪い方ではない。
会社のスタッフにも好き放題言われているから、つき合いずらい方でもないと思う。

しかし、「孤独」が好きである。
かなり好きだと思う。
そして、その性格は、ここまで生きていくうえで、ずいぶん働いたと確信を持っている。
それは、春日先生も同じであろう。

まぁ、春日先生や私のように斜めに世の中とつき合うことが正しいかどうか定かではない。むしろ間違いであろう。
しかし、「孤独」に絶えられるか絶えられないかは、世の中を生きやすくするかしないかという点ではかなり大きな要素である。

一般的には、人は「孤独」が嫌いだ。
みんなが「おーい、岡本くーーん、飲みに行こうよ〜」と言えば、行きたくなくても行くのが普通だし、東京に出張に行って独りぼっちだったりすれば誰かに電話をして飲みに行こうとするのが普通である。

コンサートに行くのに一人で行く奴も珍しければ、山に登るのに一人で行く奴も珍しい。みんなお友達や仲良しと行きたいのだ。

しかし、それをやることで失われる自己との対話。
最も謎である自分。その謎な自分と対話をする。それを優先したとき、口ではうまくいえないが、見えてくるものがある。

何も「孤独」を愛せという気はないが、「孤独」を恐れる裏返しの行動が自分を支配していないかをチェックしてみよう。

「孤独」の先には、とんでもなく大きな効用がまっているのだ。

(週刊 岡本吏郎より)


▼私もこの類である。