腐った野球

腹を切った者が簡単に生き返る。もののふのかけらもない。甲子園に出るためならば何でもありか。そんな日本に誰がした。▼世間から必ず出る言葉がある。「一部の心無い者のために」と。しかし、その一部も全部の中の一部である。▼職場の印刷室が面倒なことになっている。紙を補給するためには、わざわざカギを借り、カギを借りるためにはわざわざノートに所属と名前と貸し出し時間を書く。紙の使い方があまりにも粗雑なのだそうだ。これはとても面倒なことである。カギを管理する部署は17時には閉まってしまうので、その後の印刷作業に支障が生じるやもしれぬ。▼そこで出たのがお決まりのひと言「一部の心無い者のために」。一部は自分とは別の一部であると思っているのだろう。それは違う。自分を含む全体の中に流れる文化・習慣に甘いところがあるということだ。これは一部の問題なのではなく自分のことなのだ。そのことを人は避ける。▼駒沢大学というのはその程度なのだろう。ましてや附属高校など。そんなこと仏教では教えないのだろうか。▼おそらくその裏には甲子園というブランドに掛けてきた親子の姿が見え隠れする。予選で勝ち抜きやすい、北海道や高知には、関東、関西の野球小僧がたくさん送り込まれているのだろう。甲子園の合格確率が他の都府県に比して高いからだ。▼私はかつて、他利の精神は自利の精神との暗闘の上に成り立つのではないかと仮説した。彼らにとっての通過点であることを祈る気持ちを持ちつつも、夏、また腐った野球部が甲子園にやってくるのかと思うと、がっかりする。▼偉そうなことを言っているが、キリスト教も目くそ、鼻くその類であることは間違いない。