仕業(しわざ)

N0WHereNowhere2006-05-10


ここ数ヶ月、何かの仕業を感じる機会が多い。遠藤周作は私でない何かが文章を書かせるといっていた。先日来このブログで、そして今後展開されそうな出会いにも確かな仕業を感じる。▼sayurinさんのブログにお邪魔しまいした。まず、シャローム、聖書、水俣という単語に驚きました。sayurinさん、私は生臭ですがクリスチャンです。さらに私がたまたま与えられた宗派は生臭の中の超生臭、聖公会です。▼私はかつてyuraraaさんの同僚でした。その後、盲ろう者の方と関わりながら2年間仕事もせず、再就職した先がミッション系・聖公会系の都内の私立大学でした。▼はじめに勤務したのがチャペルでした。そこにいた派遣牧師と共に、聖書を学びました。学生たちと集って水俣にも行き、ワークキャンプをしました。もしかしたらネタはここで切れてしまうのかもしれませんが、仕業の循環を禁じえない自分がおります。▼そして、意味(御利益)がありそうで、ないような仕業の循環に巡り会う度、私は遠藤周作の「沈黙」を思い浮かべるのです。▼「なぜ、神は黙っているのか。私がこんなに迷い、苦しみ、辛い思いをしているに、なぜ、手を差しのべてくれないのか。」神は応えます。「私は黙っているのではない。いつもあなたと共にある。あなた方の行為を通して私は全てを語っている」と。▼上記フレーズは「沈黙」読了後の私の感受した「声」に過ぎません。他の方はどう感じるのか。仮に私が舞台に立つ俳優だったとしよう。そこに次から次へと登場する仕業という名の相手役。彼らは確実に私の中の何かを奏でる。伴奏者である。▼仕業はストレートに御利益という形を必ずしも取らない。それでけに相当耳を澄まさねば聞こえない音でもある。だが、聴こえる人にはすばらしい音が響き渡っているに違いない。私には音は小さいが優れた音楽が聴こえる。ただ、理解者が少ないのがほんの少しだけ辛い。