yes-no

N0WHereNowhere2006-05-12


常盤平の珈琲園へ仙人さまと共に行く。長いことご無沙汰していた。自分のことを「マスター」と呼ぶマスターが、あたたかく迎えてくれる。キリマンジャロの味も変わらない。▼仙人さんが言った。「キリスト教を利用するな」と。キリスト教を盾に、キリスト教の錦の御旗を立てれば、赤旗を立てることと変わらない、と。▼R大の良いところは「yes or no」と人に問わないところだ。「yes and no, no and yes.」イエスとノーには間があるのだ、と。▼また、自分の懐に余分にしまい込まないでいると、人は自然に差し出してくれるようになる、とも。この人なら差し出し物を生かす使い方をしてくれるだろうと人が思うのだ、と。子供じみたことをいえば、私は人ではなく、神さまがそう思うのではないかと思う。▼高校生の時、慶応の文学部の英語の問題と、京大の英語の問題を初めて見た時、ぶっ飛んだ。前者は、何だこの長さは。後者は、何だこの難解さは、と。あの感覚を今日思い出した。▼NHKディレクター1年生の時にNスペの提案を出したことがある。オーソライズ済みのNスペ提案の束をチープロデューサーから渡され、目を通し、あまりの距離のありように気分は底なし沼だった。その時の感覚が蘇った。▼仙人まもなく齢七十。私、三十七。距離は時間の経過で埋まる物ではないような気がした。この距離は立ち位置の距離だ。全く同じ場所にふたりの人間は立てない。よって、距離を埋める必要なし。それが今日の結論。▼慶応にも、京大にも、Nスペにも全く縁がなかった。それが私のyes-noなのだろう。これからも。