筑紫哲也・定年退職

N0WHereNowhere2006-01-25



1935年生まれで、本年度で70歳になる筑紫さんは定年退職になる。本日はその最後の仕事と相成った。といっても、早稲田大学大隈記念大学院(公共経営研究科)客員教授の話である。私は友と最終講義を聴講した。14号館102教室。▼最終講義のタイトルは言わずと知れた「多事争論」。私はこの言葉が、宿敵・慶応義塾創始者 福沢諭吉文明論之概略」からの引用であることを、今日始めて知った。講義の中身は一年間のまとめのような物ではあったが、ニュース23の多事争論を放送時間にして1年分程まとめて聞かせてもらった感じであり、充実感を味わった。中身については、また後日触れる機会があれば記そう。▼講義が始まる前、私にとって懐かしい顔を見つけた。NHK番組制作局ディレクター時代の先輩で、今はNHK放送文化研究所の研究員をしておられるSさんだ。なぜ、Sさんが筑紫さんの最終講義にいるのかはすぐ察しがついた。Sさんは旧姓を石川さんという。朝日新聞社・選挙の玄人と言われた、政治部の石川真澄さんのお嬢さんで、筑紫さんとも親しい。子どもの頃、よく筑紫さんが家に遊びに来た話など、伺ったことがある。▼筑紫さんは政経のOBだが、石川真澄さんは九州工業大学機会学科を卒業。娘の律子さんも東大で大学院まで考古学を専攻した才女。どうも早稲田とは縁がなかったようだ。▼しかし、思い出した。今から17年前、私が学生だった頃、石川さんが政経で特別に授業を行ったことがあった。今考えれば、筑紫さんの縁だったのだろう。政経の先輩と共にもぐったことがあった。口下手な印象の、反面実直な、職人タイプの記者だった。▼SさんはNHKスペシャルを制作したり、NHK出版協会から本を出すなど活躍されていたが、父・石川真澄の介護のために、番組制作の現場を離れ放送文化研究所に異動された。その石川さんも一昨年亡くなられた。超有名ではなかったかもしれないが、私の中では、巨星がひとつ消えたような寂しさを、喪中葉書を頂いた時に感じた。私の父よりひとつ若い。残念だった。▼1980年代前半、高校生の頃、筑紫さんが編集長をしていた朝日ジャーナルを読み漁った。大学生の時は、派手な本多勝一よりも、石川真澄に憧れ、朝日新聞社を志す。本社5階の編集部でアルバイトもしていた。しかし、結局、朝日には入れず、たまたま入ってしまったNHKでSさんと出会った。▼NHKを辞して、そろそろ10年になろうとしている。そんな冬の寒い日に、たまたまおとずれた教室は私にとってつかの間の陽だまりとなった。

旅の途中―巡り合った人々1959-2005

旅の途中―巡り合った人々1959-2005

戦争体験は無力なのか ある政治記者の遺言

戦争体験は無力なのか ある政治記者の遺言